なぜ人は旅に出るのか~まとめ

宮本常一は旅の目的について「遠いところまで行って、何かエキゾチックなものを感じるということが、1つの目的になっている」(133)と述べている。

5章かけて展開した本論考も、結局のところ論証できたものはこの言葉に集約されてしまうのかもしれない。

だとすれば本論考の存在価値はないのかということになるが、それでは論者としては内容が言葉足らずである。

もちろん本質的には宮本の言葉が「人はなぜ『ここではないどこか』に憧れ、旅に出たいと思うのか」ということの答えだとしても、実はその心意は少なくとも近世以降、生活者のメンタリティの根幹に埋められた比喩的に言えばDNAのようなものだったということは、本論考で解析できたのではないだろうかとささやかな自負は抱いている。

人は誰でも不意に旅に出たくなるものではないだろうか。しかしそれは単に「会社に嫌な上司がいるから」「仕事のノルマがきついから」「主婦の生活が飽き足らなくなったから」「日常のしがらみから逃れたくなったから」「借金で首が回らなくなったから」というような言語化できることだけが理由ではなく、生活者が無意識化に持っている、言語化できない「ここではないどこか」=異界への憧憬心から起因している心証なのである。

そのように考えると、論者自身の中にも巣くっているどこか遠くへ行きたい気持ちが、数百年前の日本人の心証とつながっているような気になるのが不思議である。

本論考の中では異界について論じながらもそれに付随する通過儀礼や異人来訪の点についても触れた。しかしいずれも論じ方としては中途半端であったことは自覚している。次回の論考ではその点に関して、正面から取り組んでみたいと考えている。

■引用元

(133)宮本常一 「旅と観光」1975『旅と観光』未来社 P19-20


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なぜ人は旅に出るのか。~「ここではないどこか」を憧憬する心の源泉~ 5 旅とは異界への越境である

通過儀礼は異界への越境である


ヒトの人生において節目節目で通過儀礼が用意されているのは民俗学あるいは人理学の世界においては周知のことだろう。ここでいう通過儀礼は、論考の上で大前提的公理として扱われているといっても過言ではないと思われる、「分離期」「過渡期」「再統合期」からなるファン・ヘネップの論として微分できる。

主要な通過儀礼の例をヘネップの理論で解析すると以下のようになる。

出産儀礼を2004『九度山町史』による九度山町の例として挙げよう。


・分離~妊娠5か月目の戌の日に腹帯、陣痛が始まると産屋に入り、新生児には産湯を使い湯は便所か何度の床下に捨てた。胎盤は父親または祖父が墓地に埋めた。
・過渡~産後1週間で妊婦は産屋から母屋に移り、生後7日または11日目に名付けを行った。そして男児は30日目、女児は33日目に宮参りをした。100日目に食い初めを行い、その後初正月、初節句、初誕生を祝い、7歳になったら着物の紐をとるヒモオトシを行った。7歳までの様々な行事即ち過渡期の通過儀礼は「七つ前は神のうち」と言う俗諺が示すように、乳幼児の魂は7歳までは不安定で7歳になってやっとこの世に定着すると考えられていた。
・統合~これ以降は8歳時に宗旨帳に名前を記載し1人前の人間として扱われるようになった。

成人儀礼で通過儀礼的要素が明確に見て取れるのは、霊山に登拝し危険な体験を経て成人する習俗である。たとえば、福島県喜多方市で行われる13、4歳を対象にした儀礼としては以下の通りである(112)。
・分離~飯豊山神社の氏子の子供である13、4歳になった少年は先達の指導で出発前の3日3晩別火生活をする
・過渡~水垢離をして白衣をつけ、山形、新潟、福島の3県にまたがる飯豊山へ登山をした。
・統合~西海の資料にはないが、この後は成人として座組などに入会し、祭りも参加できるようになったと推測される。

婚姻儀礼もヘネップの理論で解析が可能である。いくつかの事例を複合すると多くに共通している点は以下のようになる。
・分離~婚礼行列出立時の儀礼。たとえば花嫁が自家を出る時には、こんもりと盛った飯を花嫁に食べさせる、そして家を出る時にその茶碗を割る、玄関で藁火を焚きそれをまたぐ。
・過渡~夜に実家を出発し、花嫁に傘を差し掛けて婚家に行列で移動をした。
・統合~花嫁が婚家についた際には、まず門口で焚いた藁火をまたぐ、さらに花嫁が竈を3度巡るなどの火にまつわる儀礼があり、入家の際に花嫁に水をかける真似をするという水に関する儀礼、入家に際に花嫁に笠をかぶらせたりくぐらせたりする笠と鍋蓋に関する儀礼、花嫁が履いてきた草履の緒を切るような草履にまつわる儀礼、花嫁を婿以外の男が抱いて婚家に入る儀礼などである。

葬送儀礼をヘネップの3段階の理論に当てはめる場合、過渡期を四十九日までにするか、弔いあげまでにするかによって解析が異なるがこでも九度山町の例を挙げながら前者の考え方で解析すると以下のようになる。
・分離~まず病状の悪化に伴い願掛けを行う。そしていよいよ臨終時には屋根の上や井戸に向かって魂呼びをした。
・過渡~亡くなると枕飯や枕刀で霊魂の浮遊を防ぎつつ遺体には死装束を着せ、通夜、葬儀、埋葬を行って霊魂をあの世に送り出す。そして葬儀から7日間妻が骨の状態を確かめる朝参りを行い、四十九日目の中院法要で忌明けし霊魂をあの世に送り出す。
・統合~中陰法要以降、盆供養や年忌法要を33年目の弔いあげまで行う。

以上を概観して指摘できるのは、通過儀礼は基本的にこちら側の世界から境界領域を越境し異界へ向かう行程を指すのだということである。

顕著な例として婚礼儀礼を挙げると、まず自宅で嫁に飯を食べさせて茶碗を割る、というのはこちら側の世界との係累の切断としての分離を指すのであろう。

そして越境するために婚礼行列を仕立てるのは過渡期で、境界領域では魂が不安定になるので傘などで穢れを防ぐ。

最後に婚家で草履の緒を切るような、魂が浮遊した状態を断ち切る習俗を行い統合する。

このように婚礼は所属する実家という世界から婚家という異界への移動なのである。

また同時に一部の通過儀礼は五来重の提唱した「擬死再生」の構造とも極めて近似であるということも指摘しておきたい。

擬死再生儀礼とは「逆修の一種で、一旦死んだことにして罪をほろぼして生まれかわる儀式」(113)で「寿命が延び、老後は健康で、死後は往生成仏できる」(114)という宗教行事である。

著名な擬死再生事例は富山県で中世から行われている立山登拝などが挙げられるだろう。これは立山を他界と考えて、その登拝は一旦死ぬことを指し、したがって下山は再度誕生することを意味したのである、

女人禁制のため立山に登拝できなかった女性は山麓の芦峅寺で布橋を渡って仮の他界に行く行事である布橋大灌頂が用意されていたが、これもまた擬死再生であると言えよう。

このように擬死再生はこの世から「分離」し、他界での疑似的修行を行う「過渡期」を経、再度この世に戻る「統合」のプロセスを経るという意味で、通過儀礼の構造とほぼ一致しているのである。

五来も「逆修は日本人の民族宗教の再生信仰と通過儀礼をもとにして、これに密教や浄土教をとりいれて成立した」(114)と述べている通り、この両者の超近似点について示唆している。

旅とは通過儀礼である 

次に本論考の主題である旅について考えてみたい。

人類学の分野では比較的古い段階から旅と通過儀礼の関係性については検討されてきた。たとえば山下は「『家から離れた場所』への移動とは、慣れ親しんだ空間から見慣れぬ空間に移動することを意味している。したがって、時間の場合と同様、山下は空間においても日常性から非日常性への移行という『聖なる旅』の構造が存在する」(115)と旅は所属世界から異界への越境であると述べているし、またグレイバーンも同様の論旨を展開している。

ただしグレイバーンは「観光」を対象にしているのだが、ここで言う「観光」は定義的には「観光=余暇時間+自由裁量所得+地域での肯定的承認」(116)なので、論者が分類した「目的移動」の中の「行楽」のみを指しているかのようのである。

しかしグレイバーンは「観光は、中世の学生旅行や十字軍、ヨーロッパやアジアの巡礼のような、より目的性の高い諸々の慣習や制度と共通性がある」(117)としそこにはレクリエーションのほか「通過儀礼や力試し」(118)も含まれていると述べているので、観光とは実は概念的には広範な意味を有しており論者の定義する「目的移動」=旅と近似だと言えるのである。

ただし橋本が「聖地・霊地への巡礼は、数々のタブーが課せられる。それが聖なる旅を他の通常の旅(=観光)から区別する」(118)としているように、人類学では「観光」と「巡礼」は峻別し、特に巡礼を「聖なる旅」と限定的に定義している。

グレーバーンは「観光」と「巡礼」の扱い方を「同じ文脈に属するものとして扱う過ちを犯した」と批評している(119)ほどである。

しかし論者は巡礼だけではなく、行楽や観光をも含んだ目的移動としての「旅」自体が聖なるものだと考えたい。

なぜなら観光も観光を含んだ概念である旅と同様に、通過儀礼の3つのステップである、現在地から目的地=異界に向けて境界をまたぐ「分離期」、旅の目的地で様々な異体験を行う「過渡期」、異界から再度境界をまたいで所属地へ戻る「統合期」を備えており、構造としては同心円的に近似だからである。

しかしこの論理に拠ってしまうと、旅も旅行もすべて分離、過渡、統合を経るので同一のもののように思える。ところがグレイバーンがデュルケムやモースの論を援用して言うように、日常は聖俗の切り替えによって時間のそのものの重要な区切りが設定されているとし、観光も日常的・義務的な労働を行う中に祝祭的に行われる聖なるものだとしている(120)。

つまりグレイバーンは「聖なる旅」における目的地は非日常という「異界」であり、その点が俗なる仕事や行事で満たされる旅行とは異なる通過儀礼だと述べているのではなかろうか。

別の論拠を挙げるなら、J・アーリとJ・ラースンは「観光」に対する諸論の整理の中で、マッカネルが「どの観光者にも本物志向があり、この志向は聖なるものにたいする人類普遍の関心事」なので「観光者は、一種の現代版の巡礼」(121)と述べており、同時に「観光者は、ただ一つの聖地を賛仰する宗教的巡礼とはちがって、数多くの名所や見物先を賛仰する」(122)であると指摘している。

これを踏まえると、旅は「日常と非日常の対立」あるいは「聖と俗の対立」の中で成立しており、すべての旅は俗なる日常生活と対峙する「聖なるもの」=通過儀礼だと言えよう

以上は人類学における、旅=通過儀礼であるとの証明だが、同様のことは民俗学的な文脈では言えるのだろうか。この証明については2つの論拠を提示したい。

まず1点目は「デタチの祝い」「タチビ」という宴会の存在である。

デタチの祝いは移動の「出発の前の晩に(中略)交誼をかわした人びとを招いて開かれる」「タチビとよぶところもある」(123)というものだが、注目すべきは同時に「死者の葬列の出棺のまぎわに、家人・縁者が死者と最後の共同飲食をするのがタチビ」(124)(桜井徳太郎・北見俊夫「日本人の旅」『日本の民俗 4 人間の交流』1965 河出書房新社 P247)ともいう点である。

つまりここでは移動とあの世へ向かうことは同意なのである。

さらに出発当日は家族、隣近所なが村境まで送って「サカオクリ」として酒を飲んで前途の安全を祈り別れを惜しむ。サカオクリのサカは一般的には「境」すなわち村境の意味(125)と解釈され桜井・北見も同様のことを述べているが(126)、論者はこの「サカ」は物理的な村境ではなく概念的な「異界への境界」の意味を指していると考える。

つまり、この点でも移動は異界への越境と同意だということが証明できるのである。

2点目は旅装の一つの「蓑笠」である。結論的に言えば旅装の蓑笠が異界への越境ツールでもあるのだ。

蓑笠には年越しの際に主人が蓑笠姿で囲炉裏に姿を現したり、玄関口に蓑笠を飾る習俗があり(127)、通説では「正月や小正月には祖霊が屋内に訪れたのである。主人の蓑笠姿がそれを意味してゐる」(128)というように、蓑笠にはカミの象徴の意味があったとされている。

これに対して小松は蓑笠が通過儀礼において重要な役割を果たす点に注目して「蓑笠が生の世界から死の世界への”通過”のメタファー」(129)としている。

具体的な論拠は「婚礼儀礼の主題は、花嫁の社会的教会の”通過”に置かれていた。そして、この花嫁の”通過”のしるしとして、やはり蓑笠などを用いる地方が数多くみられる」(130)点や「赤子もまた、あの世=死からこの世=生への移行期間中には、エナによって象徴される”蓑笠”をつけていた」(131)点などから蓑笠を異界へ移動するためのツールという考えを述べている。

論者もこの論旨には賛同する。

誕生、婚礼、葬送の通過儀礼に共通して現れる重要なツールである以上それは通過儀礼に必須のものであり、そのことを支点に考えれば年またぎの際に主人が蓑笠を身に着ける習俗も、古い年から新しい年という境界をまたぐための必須ツールだと考えるべきだろう。

つまり異界への境界をまたぐ際に蓑笠などの旅装束をつけるということを反転して考えると、旅装束を付けて出かけるリアル世界の旅は、異界へ越境することと同義だ考えられるのである。

ここまで、4章で「生活者は異界への憧憬心を有している」と立証した。5章では「異界への越境と旅は同一構造である」と述べた。即ち三段論法で言えば、旅への憧憬は異界への憧憬と心意的に等価のものだと言えるのである。

ただし以上は極めて概念的な論旨であると論者も認めざるを得ない。そこで文芸作品上に旅に対する憧憬心の表明が存在するかを確認したい。

例えば『東海道中膝栗毛』三編には「宿場人足其町場を争はず、雲助駄賃をゆすらずして、盲人おのづから独行し、女同士の道連、ぬけ参の童まで、盗賊かどはかしの愁にあはず。かゝる有難き御代にこそ、東西に走り南北に遊行する、雲水のたのしみもえもいはれず」とある。

ここでは雲水とは遊行僧ではなく、漂泊者を指しているのでまさにここで述べられているのは漂泊、旅への憧憬だろう。

また同六編には「羇中のありさま、まことに命の洗濯もの引ツぱり、股引草鞋に何国までも、足にまかする雲水のたのしみえもいはれず」と同様のことが述べられている。

さらに『奥の細道』の冒頭も漂泊への憧憬を語って有名だが、その心意は板坂耀子が引用している読本作者の秋里籬島の『摂西奇遊団』によれば『奥の細道』の冒頭を挙げ「旅に死せる古人をうらやみ、ひたすら漂泊のおもひ止ず」と書いているように(132)、少なくとも中世以降の文学的文脈の中にいる芭蕉だけではなく、籬島などの知識人にとっても共通心意だったと考えられる。

以上述べたように、異界へ憧憬するのと等価の心意で生活者は旅に憧憬したと言えるだろう。

つまり旅に出たい、「ここではないどこか」へ行きたいという希求心は、異界に対して抱いていた憧憬と根幹は同じものなのである。

以上が論者が冒頭で挙げた「なぜ人は旅に出るのか」「なぜ、人は『ここではないどこか』に憧れるのか・憧れ続けているのか」という自問への回答である。


■引用元


(112)西海賢二 2014『旅と祈りを読む」臨川書店 P49
(113)五来重 1992『葬と供養』東方出版 P284
(114)五来重 1992『葬と供養』東方出版 P290
(114)五来重 1992『葬と供養』東方出版 P655
(115)山下晋司 「観光人類学案内」1996『観光人類学』新曜社 P8
(116)ヴァレン・L・スミス 「序論」2018『ホスト・アンド・ゲスト』市野澤潤平・東賢太郎・橋本和也訳 ミネルヴァ書房 P1
(117)ネルソン・H・H・グレイバーン 「観光」2018『ホスト・アンド・ゲスト』市野澤潤平・東賢太郎・橋本和也訳 ミネルヴァ書房 P26
(118)ネルソン・H・H・グレイバーン 「観光」2018『ホスト・アンド・ゲスト』市野澤潤平・東賢太郎・橋本和也訳 ミネルヴァ書房 P26
(118)橋本和也 1999『観光人類学の戦略』世界思想社 P57
(119)橋本和也 1999『観光人類学の戦略』世界思想社 P75
(120)ネルソン・H・H・グレイバーン 「観光」2018『ホスト・アンド・ゲスト』市野澤潤平・東賢太郎・橋本和也訳 ミネルヴァ書房 P29-30
(121)ジョン・アーリ/ヨーナス・ラーソン 2014『観光のまなざし 増補改訂版』加太宏邦訳 法政大学出版局 P15
(122)ジョン・アーリ/ヨーナス・ラーソン 2014『観光のまなざし 増補改訂版』加太宏邦訳 法政大学出版局 P17
(123)桜井徳太郎・北見俊夫 「日本人の旅」1965『日本の民俗 4 人間の交流』 河出書房新社 P246)
(124)桜井徳太郎・北見俊夫 「日本人の旅」1965『日本の民俗 4 人間の交流』 河出書房新社 P247
(125)宮本常一 1987『庶民の旅』八坂書房 P208-209
(126)桜井徳太郎・北見俊夫 「日本人の旅」1965『日本の民俗 4 人間の交流』 河出書房新社 P247
(127)小松和彦 「蓑笠のめぐるフォークロア」1995『異人論』筑摩書房 P186-187
(128)三谷栄一 1960『日本文学の民俗学的研究』有精堂 P369
(129)小松和彦 「蓑笠のめぐるフォークロア」1995『異人論』筑摩書房 P205
(130)小松和彦 「蓑笠のめぐるフォークロア」1995『異人論』筑摩書房 P208
(131)小松和彦 「蓑笠のめぐるフォークロア」1995『異人論』筑摩書房 P207
(132)板坂耀子 2002『江戸の旅を読む』ぺりかん社 P18







なぜ人は旅に出るのか~4 異界への畏怖と憧憬

論者は旅への希求は異界への憧憬と等価であると仮説を立てた。


その論証のために、まず異界に対して本当に生活者は憧憬を持っていたのかということを明らかにし、その上で異界と旅という行為の近似性を指摘することで仮説を証明しようと思う。

4-1 文芸作品にみる異界憧憬

たとえば江戸期の吉原などの幕府公認の遊里は空間的には堀などに囲まれて外界と隔絶した環境にあり、世俗の世界の地位などが通用せず、独自の秩序で構成されたという点で異界の定義に合致する。

そして江戸生活者はその吉原などに憧憬を持っていたということは、多くの浮世絵、出版物などの存在で明白である。

また生活者は概念的に隔絶した場所である常世に対しても憧憬を抱いていた。谷川は常世に日本人が抱く感情の根源を「海外の国は現実の国である以上に、幸せをもたらす理想の国なのであった(中略)日本列島は資源の乏しい島である。これが日本人の海外に関心をもたないではすまない最大の理由である。それは物資のみならず精神についても云い得る」と述べているが(40)、これも日本人が異界たる常世に憧憬を抱いているという指摘だろう。

ただし市古のように「四囲を廻らすに海を以ってしたわが国に、古来異国を夢見る傾きの強かったことは、想像に難くない」(41)と包括的に言ってしまうのは、国境が陸続きでの国でも異国への興味はあった点、近世の一般生活者の興味は名所図会が示すように海外ではなく国内だったことから言って短絡的過ぎる。

また宮田は異界は「世界への畏怖や憧憬がこめられている」(42)と述べているが、この部分に関しての詳細の説明はないので、宮田にとっては当たり前の認識だったのかもしれない。

このように感覚的に生活者が異界に憧憬を抱いていたということは漠然と感じられることではあるが、以下概ねの時系列の中で文芸作品を中心にいかに異界に憧憬を抱いていたということを示していきたい。

『浦島太郎』(古代~近世・近代)

浦島太郎の説話はほとんどの現代人が幼少時に聞いたことのある昔話だろう。

この浦島伝説の初出は古く『日本書紀』の雄略帝22年や『丹後国風土記』逸文にまで遡れる(43)。

この時点ですでに浦島伝説の骨子は①神女に誘われて蓬莱へ行く②蓬莱で神女と結婚し優雅で豊かな生活を送る③元いた世界が恋しくなり戻る④蓬莱にいた間に数百年が過ぎており太郎は老人に戻る、という内容で成立している。

以降、浦島伝説は『源氏物語』「夕霧」にも「浦島の子が心地なん」とすでに既知の説話の比喩として用いられ(44)、さらに鳥居などを参考に記載すると(45)、室町時代には浦島太郎は帰郷後は長寿の神になるというスピンアウト説話を発生させながら『御伽草子』に描かれた。

さらに近世初頭の渋川版御伽草子「浦嶋太郎」として広く流布し、17世紀後半刊行の古浄瑠璃「浦島大明神御本地」、浦島伝説を伝える浦島寺の『江戸名所図会』への掲載など広範に伝播した。近代には教科書にも国定教科書に掲載された。

このように浦島伝説が長く伝承してきた理由は筋書きの面白さをもさることながら、亀によって異界に行き悦楽の日々を送ったという異界への憧憬が背景にあったからではないだろうか。

さらに言えば、浦島太郎が帰郷後300歳の年を一瞬で取り、二度と竜宮にも戻れず、かといって現世にも居場所がなという結末自体、そのまま竜宮に滞在すれば悦楽の日々が送れたのに、という意味で異界への憧憬を垣間見ることもできるのである。

『三河物語』(江戸初期)

「異界への憧憬」ではないが、異人に対して近世にはネガティブな評価がなされていなかったという例証を挙げよう。

『三河物語』は周知の通り大久保忠教が徳川家の発祥から江戸幕府開府までの歴史を記述したものだが、その中で徳川家の発祥を「何クと定め給ふ処も無、拾代計も、此方彼方と御流浪なされ、歩かせ給ふ。徳の御代に時宗にならせ給ひて、御名ヲ徳網と申シ奉ル」と明確に流浪の時宗聖の末裔だと記している。

そもそも『三河物語』は「子孫以外に公開する意思をもっていなかった」(46)のでタブーともいえる徳川家の出自の低さを記述できたわけだが、しかし高木によれば近世の早い時期に『三河物語』は写本が作られ(47)、少なくとも『三河物語』が所収されている『遺老物語』が出版された1783年には広く読まれていたと推測される。

にもかかわらず幕府によって出版統制されなかったことから見て、必ずしも漂泊の僧たる異人が卑しく忌避される存在だったとは考えられていなかったのではないかと推測される。換言すればこれも異界にしての憧憬があったことの違った角度からの例証となるだろう。

『東海道中膝栗毛』(1802年)

2章での触れたように十返舎一九の『東海道中膝栗毛』における五右衛門風呂の扱いも、箱根以西の異界=上方の習俗に対する興味、関心、延いては憧憬をを江戸生活者が持っていた証左であろう。

異界遍歴物語

異界遍歴物語、あるいは異国遍歴小説は市古が指摘しているように(48)非常に多い。

中でも数多く現れたのは中世以降で「梵天国」などの天竺遍歴譚、「天雅彦物語」などの天界遍歴譚、「日蓮の草紙」などの地獄極楽遍歴譚、「浦島太郎」などの竜宮遍歴譚、「貴船の本地」などの仙境遍歴譚などである。

近世に入ると平賀源内の『風流志道軒傳』を始め、主人公が人間の欲望を体現できる「不老不死国」、物欲が満たされる「まんまん国」などを遍歴するストーリーを通じて世相を皮肉る『金平異国遶』など多くの異界遍歴譚としての黄表紙が出版された。

これらの変遷について野田は異界遍歴物語は中世以降多く執筆されたが、中世のものは異郷にロマンティックな理想像が投影されているが、近世になると異郷が現実化される傾向が現れ、その結果近世の異界遍歴譚は風刺性を持つ傾向も出て来るとしている(49)。

この点は異界への憧憬が近世に薄らいだというよりも、そもそも近世になって成熟した生活者社会がより風刺性、諧謔性を欲するようになったため、その結果異界遍歴物語もほかの物語本と同様に風刺性を持つようになったと考えるべきだろう。

むしろ風刺物語の設定に異界が選ばれるほど、異界が物理的に身近になったのではなく、心理的に身近になった、その結果異界への関心は強く、そして憧憬も一層亢進していたと考えたい。

『海』(1941年)

童謡は近世での御伽草子、現代での子供用絵本などと同様にある意味人間の欲望を過飾なく描いたものである。

その意味で幼いころ誰もが歌ったと思われる『海』の以下の歌詞にも、海の向こうにある異界への憧憬を人間が本来的に持っていることを推測させる。

海にお船を浮かばせて
行ってみたいなよその国
(50)

『ゴジラ』(1954年)

東宝が1954年に公開した特撮怪獣映画『ゴジラ』は第2次大戦によって活動を中止していた当方の特撮チームが結集して製作された。

内容は水爆実験によって誕生した怪獣ゴジラが、日本を襲い破壊の限りを尽くすというものだが、登場が衝撃的なものでもあり、物語に対する多様な「読み込み」がなされた。

最もよく喧伝されたのはゴジラが水爆実験で誕生したことと、第5福竜丸が被ばくした水爆実験の影響から「核爆弾への恐怖とそれを用いた第3次世界大戦への恐怖」の体現化だという読み込みだろう。

またゴジラが東京の街を破壊し尽くす状況と、第2次大戦の東京大空襲を重ね合わせ、やはり「戦争の恐怖」の実体化だする読み込みもあった。

また赤坂が発表して物議を醸した「ゴジラは第2次大戦で死んだ<英霊>の来訪」とする説もあった(51)。

以上のようにゴジラ自体多様な意味が読み取られていて、非常にメタフォリックな存在だが、その中に異人としてのゴジラという暗喩も成立するのではないかと論者は考える。

志水も「ゴジラは海から国土に来訪して、海に去っていきます。人類はゴジラに対しておもてなしはしません。だから災禍がもたらされます。すなわち、ゴジラは来訪神です」と述べているが(52)、これはあまりに短絡的な論理にしても、同様の視点を持っている研究者が存在していることは指摘できるだろう。

しかし、本来破壊神であるゴジラは1964年製作のゴジラ映画第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』以降、徐々に「正義の味方化」していく。本来破壊神のゴジラが日本を守る守護獣になる構図は疱瘡神が疫神から益神にアイデンティティを転換する構図と完全に一致する。

つまりここでは、聖俗逆転の法則が発動していると同時に、潜在的に生活者の中に、海の向こうの異界から来た異人であるゴジラに対する人気・憧憬があったからだと推測できるだろう。宮田もゴジラと安政大地震の時に元凶として描かれた大鯰には「世直し」をしてくれるという共通の期待があったとしている(53)。

この論も破壊神=ゴジラ=大鯰が、世直し神に変換するということを述べているわけである。つまり『ゴジラ』の第1作のヒット、その後のシリーズ化には生活者が異人たるゴジラに畏怖と、両義的に存在する憧憬を抱いていたこと示唆しているのである。

『遠くへ行きたい』(1962年)

永六輔の作詞に中村八大が作曲しジェリー藤尾が歌唱した『遠くへ行きたい』は多くのカバーを生んだヒット曲であり、生活者の心意に深く浸透している楽曲だと言えよう。これも「知らない街」という異界への憧憬を表現したものだと言える。

知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい
(54)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)

村上春樹の描く作品の物語設定には異界の存在を具体的あるいは暗喩的に示唆する物が多い。

その中でも1985年に新潮社から刊行され、第21回谷崎潤一郎賞を受賞し、売上も未確認だが2002年時点で単行本・文庫本を合わせて162万部とヒット作になっている『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、作品舞台としての異界の設定が明確である。

内容は「ハードボイルド・ワンダーランド」に暮らしながら脳内に架空の「世界の終り」を有する主人公の物語で、主人公はまさに「世界の終り」という異界を抱え、同時に心がなくても暮らしていけるその世界の生活に満足している。

作品テーマはそのような異界から現実世界に戻ることを企図することだが、しかし逆説的にこの作品は異界への憧憬を提示していると言えるのである。

『深夜特急』(1986年)

『深夜特急』は沢木耕太郎によって1984年から産経新聞に連載され、1986年に新潮社から刊行されたノンフィクションとフィクションの中間的な作品である。

内容は沢木が26歳から基本的には乗り合いバスだけを使って、インドのデリーからイギリスのロンドンまでを旅した紀行文である。

沢木が連載前に産経新聞に載せたコメントでは「私も、ここではないどこかに行くために深夜特急に乗ったわけです」(55)とあり、まさに「ここではないどこか」=異界に向けての漂泊的旅の記録だといってよいだろう。

新潮社によれば『深夜特急』は「何万もの熱狂的読者を持ち、バックパッカーのバイブルと呼ばれ、既に古典の風格すら備えている」(56)作品で、全3冊刊行予定のうち2巻から3巻までの間が開くと待ちわびた読者が何度も書店に問い合わせたため、最後には書店の店頭に「『深夜特急』は出ません」と貼りだされたという(57)。

またある時、3巻目が出版されることを聞いた若者が「3便が出るのか」と沢木に聞いて来、応と答えると「変な時に出さないでくださいよ」と言われたという。よく聞くとその若者は1巻、2巻と読んで衝動にかられ日本を飛び出し2年間の漂泊の旅をした末に、やっと日本に帰って就職し、安定した生活を送っているにもかかわらず、3巻が出版されると、また漂泊への憧憬に突き動かされてしまう、ということなのだ(58)。

このような若者が日本各地にいたことは想像に難くない。その影響を数値で測ることは困難だが、『深夜特急』発刊以降、

『深夜特急めし109』ヤスナリオ 主婦と生活社 2013
『So what's next?~はっちゃんの深夜特急』橋本正博 ブックコム 2011
『アフガニスタンガイドブック~ シルクロードと深夜特急の十字路』Jujiro編纂室 三一書房 2005
『僕たちの『深夜特急』~ 臨時便 : 香港→デリー→ロンドン120日間バスの旅』西牟田靖 スパイク 1997
「『深夜特急』はムリでした~小心者ライターのインド探訪記」里中 高志 『新潮45』2016年9月
「北へ深夜特急」井上雅彦『燦めく闇』光文社 2005

など、多くの書籍タイトルに「漂泊型旅」を示す一般名詞として「深夜特急」が使われていることから推測するに、『深夜特急』は漂泊型旅に誘引する影響力を相当強く持っていたと考えてよいだろう。

逆に言えば『深夜特急』発刊に前後して漂泊型旅が増加したということも言えるのではなかろうか。

この「ここではないどこか」を目指す漂泊型旅を行う人間、多くは10代から20代の若年層が求めるのは、人生の意義や目的を発見すること、あるいは自分という人間の本質を知ること、さらには異文化との接点を通じて自分の負っている文化を知ること、類型的な表現で言えば「自分探し」をすること、そしてそれらを「異界」において体験することである。

つまりここでは旅の希求は異界の憧憬と対になっているのである。

『千と千尋の神隠し』(2001年)

『千と千尋の神隠し』は宮崎駿が脚本・監督をし、2001年に公開されると興行収入308億円と大ヒットした劇場用アニメ映画である。この興行収入は現在でも日本で公開された映画の中では第1位である(59)。また第52回ベルリン国際映画祭で金熊賞、第75回アカデミー賞でアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した。

2003年1月に地上波テレビで放映した際には視聴率が46.9%となり、毎年の年間視聴率第1位となるNHKの「紅白歌合戦」を上回ったという。動画視聴のデバイスがテレビからパソコンやスマートフォンに移っている現代においては2桁の視聴率獲得がヒットの基準になっているが『千と千尋の神隠し』は相当回数テレビ放映しているにも関わらず、いまだに視聴率を15~20%維持している。

作品の内容は、10歳の少女の千尋が異界に紛れ込み近世の遊郭を思わせる油屋で労働をし、油屋を支配する湯婆に勝利して現世に帰還するというもので、若者成長譚であると同時に典型的な異界遍歴物語である。

したがってこのアニメが記録的な視聴数を挙げたこと自体、日本人のみならず世界的な規模で異界への憧憬を持っている生活者がいることの証左となるが、もう少しヒットの原因を探ってみると、表面的なヒットの理由は「主要登場人物に美少女か美少年がいて、明快なクライマックスを経て、起きた問題は作中できちんと解決する」「アニメとしての娯楽性」がきちんと押さえられていた(60)という作品のマーケティング的な戦略性の高さという側面ももちろんあった。

しかし同時に、Twitterにおける「千と千尋の神隠し モデル」の検索によれば、台湾・九份、四万温泉「積善館」、日光「あさやホテル」、東京「雅叙園」、長野県「渋温泉」などどれが正解なのかは別にして実に多くの「モデル地だと観客が思った」場所の写真がアップされている点に着目したい。

つまり、マーケティング的なヒット要因と同時に、舞台となった「油屋」を中心にしたカミガミが集う異界への関心、憧憬を持っている生活者が極めて多数存在したということを示唆しているのである。

上橋は『千と千尋の神隠し』の感想において宮崎駿の構築するアニメには「そこに世界があってこちら側を忘れてしまえるほどの『世界』がある」と述べ(61)、また「『千と千尋』で描き出される異世界に不思議な懐かしさを覚える」がその懐かしさは「『個人の思い出』から来るわけではない」(62)とも語っている。

つまり『千と千尋の神隠し』がヒットした理由は個人個人の過去体験とのリンクがあったからではなく、現代の生活者が潜在的原初的に共通して持っている異界へ憧憬心を刺激したから、ということが言え、換言すれば多くの生活者が異界への憧憬を持っていることの証左となるのである。

以上のように異界を作品舞台としている作品が多くの生活者の支持を集めているという事実から、異界への憧憬が生活者の根源的な部分に根差して存在しているということが容易に推測できる。

また文芸作品ではなく、2000年代以降顕著になってきた生活者の社会行動からもからも、異界への憧憬を読み取ることができるだろう。

4-2 異界憧憬に由来する社会行動現象

大規模なムーブメントにはなっていないが1つ注目すべき事象は「ザシキワラシに会える宿」というコンセプトで集客に成功している宿泊施設があることだろう。

たとえばその1例が岩手県の「座敷わらしの宿 緑風荘」という旅館である。これはその名の通りこの宿に宿泊すると、妖怪のザシキワラシを見ることができる、見た人がいるという風説があるという旅館で、公式サイトの予約表を見るとほぼ半年先までほぼ満員なので、このザシキワラシに会えるという付加価値が大きな集客要素になっていることは確かだろう。

しかしこれがザシキワラシではなくスナカケババアあるいはイタモメンといった妖怪だったらどうだろうか。おそらくはここまで人気の宿にはならなかったはずだ。事実「スナカケババアに出会える宿」などは管見によれば存在しない。

なぜザシキワラシに出合える宿が人気なのかということを推測するとザシキワラシというキャラクターの「愛らしい」という後天的に付加されたイメージもさることながら、ザシキワラシが宿泊客に害をもたらさないから、ということが大きいだろう。

害をもたらすにしてもそれはせいぜい「枕返しやさまざまな悪戯をして、座敷で寝ているものを安眠させない(63)程度である。

詳細にザシキワラシの伝承を辿ると必ずしも「善意的な」ものだけではなく、そもそもザシキワラシが去るとその家が没落するという消極的に大きな害をもたらす意味合いもあるのだが、しかし一般的なイメージのザシキワラシは決して邪悪な存在ではない。

つまり大きな被害をもたらさない、そして「怖くない」妖怪であれば、人は会ってみたいと思うのである。これは敷衍して言えば、それだけ人は異界に対する興味、関心、そして憧憬を持っている証左だと言えよう。

廃墟探訪ブーム

「廃墟」とは栗原の定義によれば(64)「『廃屋』『廃工場』『廃病院』『廃宿泊施設』『廃寮』などをふくむ建物や、『廃村』『廃坑などの廃墟の複合体』『廃線』の総称」である。つまりは現在使用されておらず、かつ手入れもされていないので荒廃している、あるいは荒廃の過程にある建築物のことである。

この廃墟を探訪するブームが現在起こっている。この現象については管見するところ社会学、人留学の分野でもまだその意義、内容について論証したものはない。

しかし論者はこの廃墟ブームは生活者の異界への憧憬を表す典型的な現象だと考えているので、この件の論考だけで十分に1つの分野を構築するだけのボリュームと価値があると思われるが、ここではいまだ検討としては検討途上であることを前提に異界との関連を中心に触れておきたい。

廃墟ブームは写真集の出版から1988年に発生したといってよい。

先駆は宮本隆司の『建築の黙示録』(1988年 平凡社)で宮本はこの作品で1989年に第14回木村伊兵衛写真賞を受賞している。この写真集の冒頭の「廃墟論」の中で建築家の磯崎新は廃墟に惹かれる心理、その歴史的変遷に触れながら、自身が1970年の大阪万博でメイン広場となった「お祭り広場」という半年後には廃墟となる場所の設計、施工に5年の歳月をかけた経験を疲労感とある種の高揚感とともに語っている。

その中で磯崎は

絶対的時間と呼ばれる、過去から線的に未来へと連続するひとつの軸ぞろいの刑かがある。(中略)絶対的時間は、共有され、共範敵であるので、未来を私たちが考えるときに、それは単位の軸上にただひとつ決定的に発生すると思われている。だが創造的時間は、それを想起した瞬間の時間だけ発生する。(中略)過去の事実はひとつの軸上に整列されているようにみえる。だが、その過去にたいしてさえ、創造的な時間を走らせることができる。

と述べ(65)、この文章を廃墟論により寄せて換言すれば、廃墟に対しては人それぞれが自分の中に内在する時間軸で、過去を想像してみることができる場所だ、ということである。

つまり廃墟は時間的に隔絶した場所、すなわち異界を自分の脳裏に現出させることができるビークルなのである。

またヨーロッパにおいて日本に先駆けて廃墟ブームが起こった点については「18世紀を通じて、いっぽうこの廃墟はひとつの趣味となって、ピクチュアレスク庭園の典型に置かれはじめる。これも古代願望である」(66)と、先の論が歴史的に具現化した状況を述べている。

そしてこの論の最後に「廃墟にかかわろうとするのは、透明で、貫通された美的秩序を破壊する。冷たい暴力を励起させるエロティックな欲動であろう」(67)と述べ、廃墟に憧憬を抱くということは、すなわち「貫通した美的秩序」の無い、現世での社会秩序が通用しない異界への欲動だと明言している。この欲動こそ換言すれば「憧憬」であろう。

この憧憬の心意はもっと平明に「ノスタルジー」と換言できるかもしれない。廃墟愛好家のウシロメタサが、現在廃墟となっている建築物が、過去現役として稼働しているのをリアルタイムで見ていないはずの若者が廃墟の魅力を「ノスタルジー」だと言っているのをやや批判的に紹介しているが、しかし同時に「多かれ少なかれ廃墟にノスタルジーを味わいに行っている人は多いようだ」と認めている(68)。

また近畿大学、立命館大学などの学生が組織している「廃墟研究会 RUiN」がその紹介文で「作りたてのものだけが綺麗だとは思いません。緑に呑まれてゆく廃墟はとても美しいものです」と記しているが(69)、ここで言う美しさはノスタルジーと本質的には等価であり、なおかつその心意が廃墟への憧憬の内容成分になっているとは言えるだろう。

この『建築の黙示録』以降、久住昌之・滝本淳助『東京トワイライトゾーン タモリ倶楽部』(1989年 日之出出版)、丸田祥三『棄景 廃墟への旅』(1993年 JICC出版局)など鑑賞対象として廃墟は注目されたが、自ら廃墟を探訪するブームが2000年ごろから訪れた。そのマニュアルであり探訪上の「用心集」が栗原亨の『廃墟の歩き方』(2002年)である。

この中で栗原は廃墟探訪は明確に「不法侵入」という犯罪行為であり、同時にケガなどの危険にあふれた行為だとしている。しかしこのような本が出版され、実際にサブカルチャーの代表的なサイトである「デイリーポータルZ」でも2007年に旧長崎刑務所の探訪レポート(70)が掲載されて以降、2019年までに8回取り上げられており、廃墟探訪が水面下ではブームになっていたことが推測される。

しかしそれはあくまでサブカルチャーのカテゴリーであって「健全な」生活者が行うことではなかった。

また念のため指摘しておくが、この廃墟探訪ブームは怪談の場所としての廃墟を「肝試し」として探訪する行為とは一線を画しており、あくまで廃墟という異界自体を探訪する性格のものである。

廃墟探訪がサブカルチャーからメインカルチャーに転移した分岐点が「軍艦島」の探訪ブームである。

軍艦島の正式名称は端島(はしま)で、長崎県長崎市の沖合の島である。明治期から昭和期に海底炭鉱の拠点として繁栄し、1960年代には東京以上の人口密度を有し、島内には炭鉱労働者とその家族のための住宅、スーパー、学校、娯楽施設などが密集し一大都市を形成していた。

しかし1974年の閉山後には島民が離島し無人島と化し、全ての施設は廃墟化して行った。軍艦島の名称はその姿が艦船「土佐」に似ていることから呼ばれている。

2000年頃のサブカルチャーとしての廃墟探訪ブームの頃から軍艦島は注目されていたが、そのブームの高まりを受けて2009年に一部が開放され、一般生活者が適法に上陸、探訪できるようになった。

そして2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1施設として世界文化遺産に登録され、完全に「健全な」生活者のための観光地となり、現在は軍艦島の見学ツアーが長崎観光の公式ポータルサイトである「ながさき旅ネット」に催行会社として5社のリンクが張られている。

中でも注目はメジャー観光会社の近畿日本ツーリストが運営する、シニア向けツアー「クラブツーリズム」で、軍艦島探訪と長崎教会群や雲仙温泉をセットにしたツアーなどが16ツアー催行されていることだ。

シニアを対象にこのようなツアーがあること自体すで廃墟探訪がサブカルチャーではなくメインカルチャーのカテゴリーに入っていることを示している。

磯崎の述べる通り廃墟が「貫通した美的秩序」の無い、現世での社会秩序が通用しない異界への欲動、すなわち憧憬なのだすれば、まさにこの廃墟探訪のメジャー化は、生活者がいかに異界に憧憬を持っているかということの重要な証左になるだろう。

4-3 異人歓待説=異界への憧憬

生活者が異界に憧憬心を抱いていたというもう1つの有力だと思われる証左は、異人の来訪に対して手厚くもてなす習俗があったことを示す異人歓待説である。

山岡はこの概念を「通常とは異なる姿や形の人(=異人)に対して(中略)好意を持って迎え入れた時、異人はその返礼に<神>としての力を発揮するもの」(71)と定義している。

異人を姿形の異相だけで定義することには違和感があるが、山岡の言う通り異人を歓待するということは原則的に言ってその異人に好感を抱いているわけだから、その背景には異人の所属する異界への憧憬があると考えられよう。

異人歓待説に分類される伝承、説話は全国的に分布しているが代表的なものは「大歳の客」だろう。

大歳の客のプロトタイプは「除夜の晩に貧しくて食物もないような家で旅人や乞食に宿を貸して、火をたいてせめてものもてなしとしたら、翌朝その旅の者は黄金となっていたという筋」(72)であるが、これをベースにしつつ異本も各地に存在する。

それらを網羅的に挙げることは避けるが例えば次の通りである。

愛媛県南予地方では「遍路を泊めたところ置いていった荷物が小判だった。遍路は金の神だった」(73)、奈良県東大和地方では「旅の僧侶を泊めたところ死んでしまったので囲炉裏で焼いたところ死体が小判になった」(74)、群馬県では「乞食を泊めてやったところ翌朝金の塊になっていた」(75)、佐賀県鳥栖・三養基地方では乞食を泊めてやったところ翌朝金の塊になっていた」(76)など、多数の伝承が確認できる。

ここに表現された遍路、聖、乞食など漂泊者に対する歓待にはそのような漂泊者=異人への憧憬感情が見て取れる。

漂泊者ではなく乞食という設定には若干の相違感があるが、この乞食はただの物乞いではなく、柳田国男のいう「経文を暗唱して物を乞いありく」(77)イタカだとすれば、宗教的な便益を提供する広義の宗教者であ利やはり異人だったとして整合がつく。

そもそも「大歳の客」民話の原型になったと指摘されている(78)『常陸国風土記』の福慈と筑波の山岳伝説や、『備後国風土記』の蘇民将来と巨旦将来の伝説では、宿を乞うのは前者は神租の尊、後者は武塔の神とカミなのである。

したがって、本来は憧憬の対象であった神が変形して漂泊者になったのだから、当然漂泊者にも本来的に聖なる憧憬対象の要素があったと言えると同時に、原型のカミ自体に疫神が益神になる聖俗逆転の潜在要素があるのだから漂泊者もその本質を承継して憧憬、崇拝の対象になったという両者が言えるのである。

さらに伊藤(79)によればこの「大歳の客」説話は中国に広く分布している。

詳細に触れる余裕はここではないが、中国型と日本型の「大歳の客」説話を比較すると2点の大きな相違がある。

1つは中国型での訪問者は神仙が姿を変えた乞食で、旅の途上の者ではないという点、もう1つは訪問の時期が日本型では年の改まるその夜だということに対して、中国型ではその設定がないことである。

多くの他の説話と同様、中国の「大歳の客」型説話が日本に移入されたと考えてこの2点を解析すると、まず来訪者に漂泊者という性格が日本において付加されている点は、聖なる来訪神=漂泊者という、異界から訪問する異人に対する聖なる憧憬の心理が日本独自にものとして存在したことの遡行的な証左になるだろう。

また日本型において年が改まる夜に時間的設定が限定されている点は、年が変わる空間的次元的境界の間隙を縫って異人が来訪するという構造が示唆され、この点からも富裕をもたらすものとして境界をまたいで訪問する異人への好意と異界への憧憬の存在が推測されるのである。

ただし異人歓待説を詳しく見て行くと、異人は必ずしも富裕を提供してくれる存在だとは限らない。

異人歓待説に関して述べられている論の多くは、異人は神または神の使いなのだから、人々は歓待したということが最もシンプルな主旨が多い。

例えば高取は鑪や鞴を扱う金屋の信仰する神がやがて村に定着した例を挙げて、その神に対する信仰は「それをもたらす人に対する信仰と堅く結合しており」その根底には「時を定めて子孫のもとを訪」れる祖霊への信仰があった、と指摘している(80)。

またH・C・パイヤーは異人歓待の発生するメカニズムとして「異人がもたらす魔力を防ぐために社会集団に受け入れる」ことと「取引や対話のために異人と友好関係を結ぶ」の2つを挙げているが(81)、パイヤーの想定する異人は実在の人間が前提なので、論者はもう少しそのメカニズムを幅広く捉え、以下のいずれかの条件が整った場合に異人歓待が発生したと考える。

1 被来訪側に異人が富をもたらしてくれるという前提知識がある場合
2 異人のもたらす異界の情報を得ようとする好奇心がある場合
3 異人は神の化身だから信仰心の表出として歓待する場合
4 異人が厄神である場合

ここで論のベクトルが異なるのは4の「異人が厄神である場合」である。なぜ厄神を忌避・排除しないで歓待するのだろうか。

論者は前述のように、異界は自分の存在している世界の秩序が通じない世界のすべてを指す認知上の世界であり、異人はそこに居住するまたはそこから来訪する生物と汎用的に定義しているので、異人が厄神または畏怖的存在である場合、生活者に害をなすケースも当然あり得ると考える。

しかしそのような異人さえ生活者は歓待するのである。この一見矛盾した行為はどう解釈すべきなのだろうか。

その最も典型的な例はすでに何度か簡単に触れたが、疱瘡神の例である。

疱瘡神とは天然痘の神格化であり、感染予防、感染した場合の症状の軽微化、その後の快癒を祈るものだが、祀り方としては忌避・退散と歓待の両方が見られる。

まず忌避・退散事例としては以下のようなものだ。

疱瘡が流行すると自分たちのシマ(字)に疱瘡神を入らせないため、字の外れに番小屋を造り、他の字の人を入らせないようにし、若者たちは大縄を担ぎブリキ缶を叩き、『疱瘡神はシマに入れないぞ』と叫びながらねり回り、シマの外まで追っていった。各家では門にトベラの木を立てた。(82)

「笹良三八宿」と鮑殻に書いて門口に下げておくと疫病神から逃れられる。また疱瘡にもかからない。(ささらは簓のことで古い時代の楽器である。これを使って吹いたり踊ったりする三八という強力な男がおった。それでこれを下げると厄神が退散するというもの。「鎮西八郎為朝」と書いてもよいという)。(83)

これに対して歓待事例としては以下のようなものだ。

さんぱいしに赤飯のおにぎりを盛り、赤紙で作った御幣を立て、寛永通宝(一厘銭・二厘銭)を載せ道の辻に供える。疱瘡神を送り出すという。また罹っても跡がきれいに治る。(84)

また丹野からは、山形県山前村では年またぎの晩に家の主人が正装で厄神を自宅に迎えて念入りに接待し、一晩泊めて翌早朝に送り出し「来年またござって下さい。今年はもうござらねでけらっしゃい」という習俗が報告されている(85)。

丹野はこの厄神を「ホーソ神」とする一方で年神そのものではないかと述べているが(86)、「今年はもうござらねで」と言っている以上その推測は適切ではないにしても、これら疫神を宿泊させてもてなす「疫神の宿」習俗は広範に分布している(87)。

このいわば厄神と福神が逆転するメカニズムはどこから来るのだろうか。

関根は疱瘡神に対する祭祀の種類は①悪疫を制圧する守護神への祭祀 ②悪疫をもたらす神に退散してもらう接待、と述べ(88)、佐々木も「そうした主旨(論者注:何事もなく厄神に通過してもらう)に従えば、驚異のあまりその厄神を祀り上げてしまう祭祀系呪術は防塞系呪術から派生、展開した」としている(89)。

このように全く性格の相反する厄神と福神が「御機嫌を取り結ばれた」ために性格を逆転させるということも当然考えられるが、論者はさらに一歩踏み込んで考えたい。

それは厄神と福神の性格は両義的に表裏一体であって、何らかの作用によってその性質が一気に反転するという潜在的なメカニズムが生活者の心意の中にあったのではないだろうかということである。

この点は疱瘡神だけを見ているとわかりにくいが、論者はかつてこれを「厄神」を「俗」、「福神」を「聖」と記号化し、聖俗逆転現象として以下のように述べた。(90)

本質的には神、霊は「人間にとって」邪悪なもの、災いをもたらすものだと言える。なぜなら神や霊は、あえて彼らを穢さなくても、単に敬わないだけで罰を与える例が多いからだ。神や霊から恩寵を受けるには人間が積極的に善行を果たさなければならないのである。善行である供養や奉祝が行われることで邪悪な存在である神や霊は初めて善化し、守護や祝福、恩寵を与えてくれるのだ。この本来は邪悪な存在でありつつも強い霊力を持つ神や霊を、善行によって味方にして、あるいは聖化して、自らの助力にしようとしたというのが論者の考える聖俗逆転のメカニズムである。

古事記に登場するスサノオは、高天原において明快な理由もなく粗暴な働きを行い、天照大御神が天の岩屋に隠れたことによって、高天原を追放されている。これなどもまさにスサノオには本来的に邪悪な性格を内在しているということを示していると言える。その証左に、スサノオの漢字書きである「素戔嗚」の「素」は強調語で「とても、非常に、著しく」という意味であり、残は「残酷、残忍、残虐、凶悪」の意味なのである。(中略)このスサノオに見られるように神は本来邪悪な性格を内在しているのだと言えるのではなかろうか。

つまり生活者の潜在的心意の中では、厄神は俗=邪の性格を持っていると同時に、裏面では聖=善の性格を持っていると考えられ、その善の性格に転換させるためにもてなしを行うのである。

ただし異人が歓待されない場合がある。それは「異人殺し伝説」の場合である。

異人殺し伝説のプロトタイプは山の整理をベースにすると(91)

1 旅人(異人)が来訪しある家に宿泊する
2 家の主人が旅人を殺して金品を奪う
3 奪った金品によってその家が栄える
4 異人の祟りによって不幸が起こる
5 祟りを鎮めるために異人の怨霊を祀る

である。

つまりこのケースが異人歓待と並列すると考えれば、異人は歓待も殺戮もされる存在なのだが、小松はこの相反する内容を「異人は時と場合に応じて歓待もされたし排除もされた」(92)と、時間的環境的条件によって分岐したと述べている。

しかし論者は異人歓待伝説と異人殺し伝説は並列関係ではなく、前者が後者を包含する関係だと考える。

なぜなら、小松が挙げている異人殺し伝承は異人を恐れての所業ではなく、ほとんどの例は異人を殺害することによる財産の強奪などの金銭的メリットがあった場合のみであり、したがって異人を殺したという事案は物語の本質的な差異ではなく、異人歓待伝説の結末だけが分岐したものだと考えられるからである。

ただし小松はナマハゲを例に挙げて来訪神の場合も排除されるケースがあったとも述べているが(93)、この場合ナマハゲは排除されているのではなく、まずナマハゲに対する畏怖があり、無事に去ってもらうために歓待しているととらえるべきなので、異人排除という意味での「異人殺し」には該当しないと考える。

したがって異人殺しは「時と場合によって」並列する相反的な伝説ではなく、いわばメタ異人歓待伝説の中に異人殺し伝説が包含されている構造だと言えよう。

ただし飯島も、猟師が山での禁忌である出産をカミが行うのを助けたことで栄えた『マタギ由来記』などは、禁忌を侵犯することで社会秩序が確立することを挙げて、異人をもてなす異人歓待も異人を殺す異人殺戮も禁忌侵犯という点で一致しているという説を述べている(94)。

しかしながらこの論旨は禁忌侵犯による社会秩序の確立という概念と、富裕の取得という概念の間にロジック的な乖離が見られるので首肯しにくい。

4-4 貴種流離譚

異人が歓待される構造を論じる上で併せて検討していく必要があるのは「貴種流離譚」であろう。

西村の定義では「貴種流離譚」とは「神あるいは神の末裔というような高貴の人が漂泊の旅に辛苦し、ついには死に至るなど哀しい結末をもつ物語が古来多く存在し(中略)折口信夫はこの一類を貴種流離譚と呼ん」だ(95)という物語の一類型である。

貴種とは時代変遷別に誰を指すのか、物語のパターン分析など詳細にわたっての論考があるが、本論考では別稿に譲りたい。

ここでは貴種流離譚は貴人が僻地を来訪する話であり、異人が来訪する説話と構造的に近似である点に注目して、貴種を受け入れた側の心意の推測と、なぜ貴種流離譚が成立し生活者に受け入れられ流布したのか、すなわち貴種流離譚成立の背景検討を通してなぜ異人歓待説話が流布したのかについて一考察を述べたい。

まず与件だが、貴種流離譚に触れるためには本来は折口信夫の案出したマレビトという概念を検討せざるを得ない。

しかしマレビトはいまだ民俗学の世界では安定した定義と評価を得ているタームだとは言い難い。そもそも柳田国男はマレビト論を認めていなかったし(96)、折口の思考の特徴として論考を経るに従って流動的に概念が変化、進化、拡大していくので一つの確定したタームとして扱いにくいという点がマレビトを民俗学における確定的共通言語になり得ていない理由だろう。

したがってマレビトについて触れる場合は相当の検討が必要なのだが、紙幅の限界と論者の浅学の点から、マレビトは祖霊であり来訪神であり同時に来訪する人間(=旅人)であるととらえ、したがって論者の考える異人に包含される概念だと考えておきたい。

また貴種流離譚に先駆けたとされる柳田の「流され王」での論旨は、「塚の神を遠来の霊として祀っておれば、ほどもなく貴人流寓の口碑となってゆくのは、いたって自然な変化」であり(97)、ある意味の完全にでたらめではないものの「誤謬」(98)であったとしつつ、後世における精細な比較研究が必要だと述べている(99)。

しかしいずれにしても、先祖由来伝説の成り立ちを平板にとらえてたうえで課題提示をしたのみで、構造的に「流され王」について検討したとは言い難い。柳田自身、このテーマに関してはこれ以降触れてはいない。したがって流され王論の検討は措いておく。

以上を前提にそもそもなぜ貴種流離譚が発生したのか、については以下の4点が考えられる。

A 遊幸信仰:堀の唱えた「遊幸信仰」は「遊幸思想とは神々の降臨、示現、憑依、巡遊」であり「貴人高僧の漂着来往譚」も併せて村人自身が「自己の祖先とし故郷の取分けて重要なる歴史の語事」(100)、すなわちに高貴な身分ゆえに崇敬して歓待したのではなく祭神化して自村の祖先とした、というものである。赤坂憲雄はこれを「<常民型>貴種流離譚」と呼び(101)、皇子、皇女を迎えて歓待し祭神として仰ぐ単純な貴種崇敬として捉えている。この赤坂論であれば、貴種流離譚は背景に遊幸信仰という「異界自体への憧憬」があったからだと言えるだろう。

B 職業由来を皇族に求める:例えば木地師は小野宮惟喬親王が周辺の杣人に木工技術を伝授したことが発祥だという説、「遊女は光孝天皇の皇女の末であり、傀儡は村上天皇の皇女の末であるとする」(102)説などがこれに該当する。赤坂は「<職人型>貴種流離譚」(103)と分類しているが、この発生理由はあくまで機種の血流を崇敬しているのであって異界から来訪した点を尊んでいるのではない。

C 落人伝説:落人を迎え入れた理由は、柳田の指摘のごとく「東北北陸の山の中に入っても、やはり平家の落人として立派に公認せられて居る者が多く、彼等はたゞ割拠没交渉の一手段のみによって、辛うじて家の誇りを保って居る」(104)という極めて現実的便益的なものだったと考えられる。

さらに詳細にみれば「草分けの家と伝えられる家や、村の中で特別の由緒を持つ家、あるいは経済的な優位性を古くから持つ長者が、共同体の中で他の家々に対して優越的な地位に置かれる」(105)ということが言えるので、いずれにしても現世における即物的な便益や精神的な優越感を得るために貴種は受け入れられ、流離譚が発生したのである。

D 純粋な異界自体への憧憬:ABCのどれにも該当しないが、貴種を受け入れている例である。説話に例をとれば「≪貴種流離譚≫の完成形を示している」(106)とされる『宇治拾遺物語』186話「清美原天皇と大友皇子と合戦の事」では
「下種の狩衣、袴を着給給うて藁沓をはきて」「あやしく、けはひのけだかくおぼえければ、高坏に栗を焼き、又ゆでなどして参らせたり」
というように決して貴種を感じさせない粗末な服装をしている大海人皇子を、むしろそれゆえに歓待したのはこの「あやしさ」が異人を感じさせたからであって、ここに異人の所属する異界への憧憬が見て取れる。さらに『伊勢物語』第14段「くたかけ」では「むかし、男、陸奥の国にすずろにゆきいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、せちに思へる心なむありける。」とあり、実際には貴種であっても、男の地位、血縁などではなく単に京の男=異界の男というだけで思慕を抱く姿が描かれている。

ここまでの論考を集合論で整理してみよう。まず異人歓待説を集合Aとするとここの含まれる要素は「対象はすべての異人」であり「歓待の背景には異界への憧憬があった」ということである。次に貴種種流離譚を集合Bとするとここに含まれる要素は「対象は貴種のみ」であり「受け入れ(歓待)の背景は便益期待と異界憧憬の2種類」ということになる。

したがって、一見極めて類似する異人歓待説と貴種流離譚は実は別の要素で成り立っている説であって、共通するのは唯一、集合Aと集合Bが重複する集合C、すなわち「対象が貴種」で「異界への憧憬によって歓待している」説話のみ、ということになる。

異人歓待説について少し詳しく解析したが、結論としては異人歓待という習俗が異界憧憬の心意の存在証明になるという点と、異人畏怖の心意が異人歓待の習俗に繋がりそれが異界憧憬の心意の存在証明になるということである。

特に後者は橘の引用する(107)、L・J・ボルケージーが古代ギリシャ・ローマ文化を分析を通じて分類した異人歓待は「異人に対する忌避と虐待」「異人の呪術力を取り除く異人歓待」「王女メディア型異人に対する異人歓待」「異人の神」「契約的な異人歓待」「利他主義的な異人歓待」の7つであり、そのうちの3つ目の「王女メディア型の異人歓待」に該当するとも言えるだろう。

すなわち「第三のカテゴリーではギリシャ神話に登場する王女メディアにちなんで名づけられている。(中略)人びとは異人の危険な呪術力を阻止するために、異人歓待という儀礼的な儀式をはじめるようになる。(中世)同時に異人を歓待する人間には幸福をもたらす側面があるとみなされるようになる。」ということである。(108)

4-5 卑種流離が貴種流離譚を語るという構造から発生する憧憬心

大岡昇平は折口が自身の小説『身毒丸』の語り手を貴種ではなく芸能者にしたのは、貴種流離譚を伝えたのは貴種ではなく卑種だったと考えていたからではないかという仮説を提示している(109)。

同様のことを高橋睦郎は貴種流離譚には「貴種であるからには流離しなければならぬ」と「流離するものは貴種である」の2つの観点があり折口は後者に拠っている(110)として述べている。

つまり折口は異界から来訪する全ての異人は本来的に聖性を有していると考えており「語るものとしての自己を低きに置く」(111)ために、卑種が貴種を語るという構造を考案したのではないかということである。

即ち異人が来訪した段階で、すでに異人は聖性を有し、受け入れ側は卑賤な存在だということが与件されているのである。

卑種が貴種に対して抱く感情は、ほとんどの場合憧憬であり、その憧憬は異人のやってきた異界への憧憬へと連携するだろう。

以上、ここまで生活者が異界に憧憬を抱いていたということを文芸作品、現代社会現象、民俗的な習俗の3点から証明した。次章では異界への憧憬が旅への希求に繋がっていたのかどうかについて検討を加える。

■引用元


(40)谷川健一 「常世論」2006『谷川健一全集 12』冨山房インターナショナル P235
(41)市古貞次 1955『中世小説の研究』東京大学出版会 P315
(42)宮田登 「異界との交流」1992『國文学』 P56-61
(43)林晃平 2001『浦島伝説の研究』おうふう P29
(44)林晃平 2001『浦島伝説の研究』おうふう P52
(45)鳥居フミ子「古浄瑠璃『浦嶋太郎』」1992『近世文学論叢』水野稔編 明治書院
(46)百瀬明治 「総説」1992『三河物語』徳間書店 P11
(47)高木昭作 「三河物語の成立年について」1970『東京大学史料編纂所報』5号 P45
(48)市古貞次 1955『中世小説の研究』東京大学出版会 P329
(49)野田寿雄 「近世後期の異国遍歴小説」1961『国語国文研研究』 P1-2
(50)林柳波 1941『海』3番
(51)赤坂憲雄 「ゴジラは、なぜ皇居を踏めないのか」2014『ゴジラとナウシカ』イースト・プレス
(52)志水義夫 2016『ゴジラ傳』新典社 P146
(53)宮田登 2002『妖怪の民俗学』筑摩書房 P17-18
(54)永六輔 1962『遠くへ行きたい』
(55)産経新聞 1984年6月14日付夕刊
(56)新潮社公式サイト  https://www.shinchosha.co.jp/book/327513/
(57)沢木耕太郎 2008『旅する力』新潮社 P283
(58)沢木耕太郎 2008『旅する力』新潮社 P287
(59)興行通信社 CINEMAランキング通信「歴代興収ランキング 2019年9月29日  http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/
(60)長田美穂 2002『ヒット力』日経BP社 P332
(61)上橋菜穂子「宮崎アニメという異界」2001『ユリイカ』8月号 P90
(62)上橋菜穂子「宮崎アニメという異界」2001『ユリイカ』8月号 P88
(63)香川雅信 「ザシキワラシのポストモダン」2008『日本文化の人類学/異文化の民俗学』小松和彦還暦記念論集刊行会 法蔵館 P735
(64)栗原亨 2002『廃墟の歩き方 探訪篇』 P30
(65)磯崎新 「廃墟論」1988「建築の黙示録』宮本隆司 平凡社 P5
(66)磯崎新 「廃墟論」1988『建築の黙示録』宮本隆司 平凡社 P8
(67)磯崎新 「廃墟論」1988『建築の黙示録』宮本隆司 平凡社 P10
(68)ウシロメタサ 「ノスタルジーの正体」2003 栗原亨『廃墟の歩き方2 潜入篇』イースト・プレス P148
(69)ガクサー  https://gakucir.com/detail/4037
(70)デイリーポータルZ https://backnumber.dailyportalz.jp/2007/06/01/a/
(71)山岡敬和 「貴種流離譚とは何か」2009『國文学』 P9
(72)歴史民俗博物館データベース
(73)愛媛県教育研究評議会国語委員会編 2004『愛媛のむかし話』日本標準 P45-46 
(74)松本俊吉編 2017『奈良の民話』未来社 P173-174
(75)2007『群馬の民話傑作選』あかぎ出版 P136-138
(76)宮地武彦編 2016『佐賀の民話第一集』未来社 P30-31
(77)柳田国男「『イタカ』及び『サンカ』」1989『柳田国男全集』4 筑摩書房 P454
(78)飯島吉晴「異人歓待・殺戮の伝説」2001『一つ目小僧と瓢箪』新曜社 P339
(79)伊藤清司 1991「東アジア民間説話の比較研究」博士論文
(80)高取正男「村を訪れる人と神」1982『宗教民俗学』法蔵館 P77
(81)H・C・パイヤー 1997『異人歓待の歴史』岩井隆夫訳 ハーベスト社 P2
(82)鹿児島県大島郡和泊町『和泊町誌(民俗編)』 歴史民俗博物館データベース
(83)山口県阿武郡福栄村『福栄村史』 歴史民俗博物館データベース
(84)岐阜県安八郡輪之内町『輪之内町史』歴史民俗博物館データベース
(85)丹野正 「厄神の宿」1952『民間伝承』16巻12号 P31-32
(86)丹野正 「厄神の宿」1952『民間伝承』16巻12号 P33
(87)大島建彦 2008『疫神と福神』三弥井書店 P54-55
(88)関根邦之 「疱瘡神について」1973『日本歴史』日本歴史学会  P122-123
(89)佐々木勝 1988『厄除け』名著出版 P99
(90)髙田伸彦 「キラキラネームはなぜ名づけられ、なぜ嫌われるか~過去から変容しているメンタリティ、不変容のメンタリティの民俗的解析」2020『近畿民俗』 P39
(91)山泰幸 「異人論を再考する」2015『異人論とは何か』ミネルヴァ書房 P5
(92)小松和彦「異人殺しのフォークロア」1995『異人論』筑摩書房 P16
(93)小松和彦 1998『異界を覗く』洋泉社 P65
(94)飯島吉晴 「異人歓待・殺戮の伝説」2001『一つ目小僧と瓢箪』新曜社 P343-345
(95)西村亨 「貴種流離譚」1985『國文学』 P122
(96)柳田国男 「日本の神と霊魂の観念そのほか」1965『民俗学について 第二柳田国男対談集』筑摩書房 P18
(97)柳田国男 「流され王」1971『一目小僧その他』角川学芸出版 P218
(98)柳田国男 「流され王」1971『一目小僧その他』角川学芸出版 P223
(99)柳田国男 「流され王」1971『一目小僧その他』角川学芸出版 P225
(100)堀一郎 1944『遊幸思想』育英書院 P4
(101)赤坂憲雄 「流離する王の物語」2003『天皇と王権を考える 9』岩波書店 P220
(102)1986『日本の歴史 3』朝日新聞社 4-79
(103)赤坂憲雄 「流離する王の物語」2003『天皇と王権を考える 9』岩波書店 P223
(104)柳田国男 「木思石語」1998『柳田国男全集 13』筑摩書房 P235
(105)三浦佑之 「貴種流離譚と落人伝説」2003『排除の時空を超えて』赤坂憲雄・中村生雄・原田信男・三浦佑之編 岩波書店 P77
(106)山岡敬和 「文学の発生と貴種流離譚」2005『國學院大學紀要』P160
(107)橘弘文 「二つのホスピタリティ」2008『日本文化の人類学/異文化の民俗学』小松和彦還暦記念論集刊行会 法蔵館 P45-46
(108)橘弘文 「二つのホスピタリティ」2008『日本文化の人類学/異文化の民俗学』小松和彦還暦記念論集刊行会 法蔵館 P45-46
(109)大岡昇平 「折口学と文学」1995『大岡昇平全集 19』筑摩書房 P610
(110)高橋睦郎 「貴種流離をめぐって」2016『在りし、在らまほしかりし三島由紀夫』平凡社 P83
(111)高橋睦郎 「貴種流離をめぐって」2016『在りし、在らまほしかりし三島由紀夫』平凡社 P86



なぜ人は旅に出るのか 3 異界とは何か?その定義

前章で論者は「異界」という文言を用いたがこのタームはまだ民俗学の分野では十分に定着したものだとは言えない。

例えば日本民俗学会の学会誌でタイトルに「異界」というタームが使われた例は「書評 『ケガレとしての花嫁--異界交流論序説』」(24)と飯島吉晴「竃(かまど)神と厠(かわや)神--異界とこの世の境」(25)の2つしか確認できなかったからだ。

また代表的な辞書にも「異界」はほとんど掲載されていない。論者が確認した限りでは広辞苑5版、大字源、新明解国語辞典7版、大辞泉、日本語大辞典への掲載はなく、唯一大辞林2版で「人類学や民俗学の用語」としてあったのみである。

しかし、だからと言って異界というタームがごく一部でしか用いられない特殊なものであるということはない。むしろ近年人類学や社会学の分野では頻出し検討されているとさえ言える。

そもそも異界というタームの出所はファンタジー研究分野からの援用だという(26)。さらに遡ると異界というターム自体は大野によれば(27)(「異界を超越する試み」2013『超域する異界』勉誠出版 P6)ハワード・ロリン・パッチの『The Other World』を1983年に黒瀬保らが「異界」と訳したのが初出らしい。

ただし同書の黒瀬による「訳者の言葉」では「言語のジ・アザー・ワールドなる英語は、『来世』のほかにも『彼岸』『冥界』『冥府』『黄泉の国』『別世界』『天国』『極楽』『浄土』などの種々の訳語が考えられ(中略)敢えて本文では『異界』に統一することはせず。適宜『来世』『冥府』『別世界』『異界』等訳し分けた」(28)とのことなので、この段階では「異界」は人類学のテクニカルタームとしても成熟していなかったことがわかる。

しかしながら肝心の「異界」という文言の定義はパッチの『異界』の中では序章の1ページ目から定義なしでいきなり用いられており種々の「状況証拠」と「周辺描写」から「異界とは何か」を推測するしかない。池原の指摘では国文学の世界でも1980年代半ばころから用いられ始めたという(29)。

では現在用いられている範囲の中で異界というタームの定義はどうなるのだろうか。池原が詳細に書誌的に異界の定義に関して検討した結果では「『異界とは、『他界』『異郷』といった想像上の世界の後継として認識されていることが多く」(30)、その一方で「近世において『悪所』とか『悪場所』などと呼ばれる、遊里や芝居町、つまりは『想像力』や相対的といった仲介概念を考慮する必要のない、物理的に存在する非日常世界」(31)であり、最終的には「定義が一様でない」(32)と総括している。

とは言え民俗学、人類学、社会学を横断した分野で異界という文言を最初に論考したのは小松であることは間違いないだろう。その小松によれば異界とは「目に見えない『境界』の『向こう側の世界』」であり「心理的・感覚的意味での『異』なる世界」であり「そうした時空をも含み込んだ抽象概念」(33)だとしている。また「異人」も同様に「『境界』の向こう側の世界に属するとみなされる人」(34)ということが定義だ。

しかし論者はこの定義には異論がある。特に指摘したいのはきは異界も異人も認知上の存在だという点ではないかという点である。

即ちその場所を自分にとって自分の属している秩序世界とは性格も構造も異なり自分の常識が通用しないと自分で「認知」しなければそこが異界でもなく、そこに属している生物は異人ではないということである。

たとえばあの世は誰も行ったことがなく、現世とは成立している秩序が異なるので異界なのである。幼子にとってはただの隣町もまだ行ったことがなく、そこにはどのような生物がいるのかわからないので異界なのだ。

逆に言えば、この世とあの世を自由に行き来できたと言う小野篁にとってはあの世は異界ではなかっただろう。

更に言うなら東京ディズニーランドでさえ、そこをオリエンタルランドが経営しアルバイトが着ぐるみに入って運営している営利施設だと認知する人にとってはただのテーマパークだが、あの場所を日常世界とは隔絶した世界でミッキーマウスという「架空であり現実の」生物が迎えてくれる場所だと認知する人にとっては異界なのである。(ウォルト・ディズニーは自らのディズニーランドをそのような存在にするために、徹底した「別世界空間」(35)を実現させた)。

未来のロボットであるドラえもんにとっては未来も現代も十分にその秩序を知悉している日常世界だが、現代人ののび太にとっては未来は異界である。

したがって「あの世」「常世」も「ネバーランド」も、幼子にとっての「隣町」も、自分の属している秩序空間と異なる世界はすべて異界なのである。ここまでのことを定義的に述べるなら「異界」とは主体者の認知している社会秩序が通用しない場所のすべて、と定義できはしないだろうか。

さらに「異人」について小松は「特定の集団の前に物理的存在として出現する『異人』」と「神の世界(異界)から共同体を来訪して来る『神』」は「別々のもの」としている(36)が、この点も論者の異界の定義に即するなら、むしろ小松の言う後者は前者に包含される概念的存在だと言える。

なぜならそう考えることによって、たとえば「蓑笠」の存在の役割と意義が一層明確になるからである。年またぎに訪れる歳神やその他のナマハゲなどの来方神が蓑笠を着ているという共通点についても多く報告されている。

折口信夫も指摘している通りこの点から蓑笠は来訪神あるいは「まれびと」の象徴だいうことがいわば民俗学分野でのスタンダードになっているが、一方で「神奈川県津久井郡でも、嫁は松明を跨いで入るが、そのときに蓑笠をつけ、勝手口から入る」(37)、「和歌山県有田郡で、一七日の行事をいう。蓑笠、米五合、青竹の杖、銭六文、草鞋を持って墓参し、これらを供えて後ろを見ずに急ぎ帰ってくる。もし振り返ると幽霊が出るという」という事例もありこれは前者の定義では納得のいく解析ができない。

また戸部は「大歳の夜に蓑を逆さに着て屋根の上にのぼって見ると、来年の吉凶禍福が見える」という俗信を引いて蓑は未来を覗く道具だとしている(38)。

この2つの異なるベクトルの話から、蓑は来訪神の象徴ではなく、来訪神にも嫁入りにも、そして未来を覗くという行為にも共通する、自分の秩序世界と異なる場所と接する、あるいは異なる場所=異界から来る際のツールだと指摘でき、蓑笠を用いている者は異界との境界をまたぐ行為を行う存在の象徴だと考えるのである。

以上から論者はいわゆる「常世」も「ディズニーランド」も異界だという認知があり得るとし、そこに存在する生き物は全て「異人」だと考えたい。

更に言うなら小松は異人を以下の通り4分類しているが(39)

①ある社会集団に外からやってきて一時的に滞在する異人
②ある社会集団に外からやってきて定住する異人
③社会が内部で排除して作る異人
④空間的時間的に隔絶したところに存在する異人

しかしこの分類は固定した社会集団を軸に異人か否かを判断しているので、自らが異界を訪問した時に周囲に存在するすべての生物としての異人が欠落してしまう。

その場合は周囲がすべて異人であると同時に、周囲にとっては自分が異人である。論者はこのように世界を認知する主体を軸に考えるので、やはり異人は「認知上の異界に存在する生物」でありしたがって小松の③はそのものが外部の異界から来たと「後付けで設定」されない限り異人に該当しないと定義したい。

■引用元

(24)浅野久枝『日本民俗学』 1999年2月
(25)『日本民俗学』 1986年11月
(26)小松和彦 2008『日本人の異界観』せりか書房 P5
(27)大野寿子 「異界を超越する試み」2013『超域する異界』勉誠出版 P6
(28)黒瀬保 「訳者の言葉」1983『異界』黒瀬保・池上忠弘・小田卓爾・迫和子訳 三省堂 ⅱ
(29)池原陽斉「『異界』の諸相」2013『超域する異界』勉誠出版 P287
(30)池原陽斉「『異界』の展開」2012『東洋大学人間科学総合研究所紀要』 P181
(31)池原陽斉「『異界』の展開」2012『東洋大学人間科学総合研究所紀要』 P181)
(32)池原陽斉「『異界』の展開」2012『東洋大学人間科学総合研究所紀要』 P178
(33)小松和彦 1998『異界を覗く』洋泉社 P10
(34)小松和彦 1998『異界を覗く』洋泉社 P12
(35)能登路雅子 1990『ディズニーランドという聖地』岩波書店 P32
(36)小松和彦 1998『異界を覗く』洋泉社 P53
(37)歴史民俗博物館 民俗語彙データベース
(38)戸部民夫 2001『神秘の道具 日本編』新紀元社 P159
(39)小松和彦 「異人」2002『新しい民俗学へ』せりか書房 P213-214






なぜ人は旅に出るのか~2 仮説の設定~旅への希求の根幹は異界への憧憬か

前章で旅及び旅行すなわち<移動>という事象を時系列的に概観した。

しかしここで論者は冒頭の問いに戻ってしまう。即ち「なぜ人は旅に出るのか」「なぜ、人は『ここではないどこか』に憧れるのか・憧れ続けているのか」ということである。

この問いに自ら答える上でフックになる事例が『東海道中膝栗毛』にある。それは初編の小田原の宿における以下のエピソードだ。

それは宿の五右衛門風呂への入り方を知らない弥次郎兵衛が便所下駄を履いて入ったのを真似た喜多八が風呂の底を踏み抜いてしまうという失敗談である。その中で注目したいのは以下の部分だ。「このはたごやのていしゆ、かみがたのものとみへて、すいふろおけは上がたにはやる五右衛門風呂というふろなり」。即ち五右衛門風呂は上方という見知らぬ文化と秩序で成り立っている世界の象徴であり、このエピソードはその異文化と接する中で失敗したということを滑稽談に仕立てているのである。

つまりこのエピソードは箱根以西の「異界」である上方の習俗に対する興味、関心を江戸の人間が持っていたということの証左と言えるものである。当時はすでに「野暮と化物は箱根の先」という諺があり『化物箱根先』(1778年)などのタイトルの黄表紙が発刊されていたが、これもまさに箱根から先の上方が江戸の生活者にとって化物の出る異界であったことを示している。

賢明な諸氏ならお気づきだろうが今論者は無定義で「異界」という言葉を用いた。そう、つまり旅に人が憧れるのは、ヒトが本来異界に憧憬心を持っているからであり、憧憬の現実化の一部として旅に出ると論者は考えているのである。

もちろん現実的には、旅へ出る楽しみは名所旧跡の見物、名物の飲食、そして近世であれば飯盛女との交合もあるだろう。しかし江戸期前半に名所記が人気となり、後期には名所図会が大ヒットしたことは、江戸期の生活者は自分の周辺の地理以外の事象に多大なる興味を持っていたということを指し、それは地理的な3次元的な外界に対してだけではなく、3次元への興味を包括し、次元を超えた未知の世界、すなわち異界に対しても興味とそして憧憬を持っていた証左ではないかと考えるのである。

仮説設定のフックとして近世の『東海道中膝栗毛』を挙げたが、現代においても同様のことが言える。

現代生活者が国内、海外に限らず旅に出たい希求にかられるのは、その根本には「ここではないどこか」という異界への憧憬があるからなのである。つまり旅への希求は、異界への憧憬という民族が古来から現代までまさに比喩としてのDNA的に継承されているメンタリティなのだ。以上が論者の考える自らの問いに対する仮説としての答えである。即ち「旅への希求の根幹は異界への憧憬」なのではなかろうかということである。

以下、この仮説を論証して行きたい。






プロフィール

茶莉以とび

Author:茶莉以とび
民俗学の論文を掲載しているサイトです。初めての方は「はじめに」からお読みください。論文の質は別にしてオリジナリティには自信があります。12月16日付でサイトタイトルを変えました。

自分のしていることはほかの民俗学者がしないようなアプローチで「日本人とは何か」という古くて新しいテーマを捜査することだと思って「民俗探偵」を名の乗ることにしました。

詳しい経緯は「はじめに」をお読みください。

もちろん既存の手法で既存の概念でのんべんだらりと研究されている既存の民俗学対する攻撃的な姿勢は変えません。

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